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日本の給与史

カギは恩賞にあり! 信長・秀吉に学ぶヒト作りの極意

愛知が誇る三英傑、その中でも著者が好きなのは織田信長と豊臣秀吉である。
信長は既存の価値観をぶち壊し1人で近世の扉を開いた。
秀吉は貧農から身を起こし、足軽から駆け上がり、天下人にまで登り詰めた。
2人に共通しているのは、人材作りの巧みさだ。恩賞、つまり現代で言うところのオカネの持つ威力を知り尽くしていただけに、恩賞を上手に配りながら他人を味方に付け、育成し、最強の軍団を築いた。
この2人の天下人が行った人材育成法を、恩賞という観点から研究してみよう。

身分をとらわれずに人材登用! 徹底した実力主義の信長

信長は、どう家臣を処遇してきたのか、子飼いの籐吉郎の出世を例にとりながらみてみよう。その辺りは『武功夜話』という書物の中に出てくる。この『武功夜話』とは、昭和34年の伊勢湾台風によって愛知県江南市の旧家の土蔵が崩れ、中から発見された資料である。この中では「木下籐吉郎 初てがら」と題して、次のように出てくる。

「信長公にご奉公されたはじめは、15貫文の給地を下されていた。永禄元年(1558年)に信長公が岩倉攻めを行い、その時に手柄があったので、その恩賞であった」と記されている。

永禄元年とは、籐吉郎が23歳の時だ。籐吉郎は19歳で草履取りになって、仕官したことになっている(諸説あり)ので、この年は入社4年目になる。その1年前には、清須城の塀を突貫工事で修復し、信長から認められたばかりだ。

籐吉郎の立場は、最初は草履取りであり、今風にいえば臨時のアルバイトのようなものだった。その頃の籐吉郎は、言ってみれば食べさせてもらっているだけで、給与と呼べるようなものはもらっていなかった。その籐吉郎が入社4年目にして悲願だった士分に取り立てられたのだ。

気になるのは“初任給”ともいうべき15貫文の給地とは、それは今のオカネにして、いくらぐらいなのだろうか? この問題は米の相場が上下するので一概に答えにくいが、戦国史研究の第一人者・小和田哲男先生によれば「1貫文はおおよそ8万円に相当する。15貫文の給地とは、1年間で15貫文の年貢が入ってくる土地をもらったという意味だ」という。そうなると15貫文の給地とは、年収120万円ということになる。随分低い給与だが、それでも嬉しかったことだろう。

『武功夜話』の中で籐吉郎の処遇が再び出てくるのは次のくだりである。

「永禄5年(1562年)に百人足軽組頭となり立身出世して、在所の中村に帰って故郷に錦を飾った。禄高は50貫文となった」

この50貫文というオカネだが、1貫文はおおよそ8万円だとすれば、年収400万円にしかならない。当時はイザ合戦となれば、7貫文につき1人の部下を引き連れて参陣するノルマがあったので、50貫文なら自分以外に6人の部下を引き連れていく立場だった。それにしては年収がいささか低過ぎるが、一人前の武士になったわけだ。

『武功夜話』は、更にこんなことも書いている。

「犬山城の落城の後で、籐吉郎の調略による功績を評価して600貫文という禄を賜ったが、これはそれまでの10倍だった」

この犬山城の落城は、永禄7年(1564年)のことだ。籐吉郎が29歳のことで、入社後10年経っていた。600貫文といえば、年収4800万円であり、織田軍団の中でも有力な存在になっていたことの証だ。

信長は、このように手柄を立てた者には、思い切って処遇した。その差別のない実力主義は、評判を呼び、各地から人材が集まってきた。当時は戦国時代だったが、門地を問わない人材登用をする大名は、他になかったことだろう。我こそはの思いで馳せ参じた1人が明智光秀だ。光秀は永禄11年(1568年)に足利義昭を信長に引き合わせ、それ以降、二人の主君に仕えることになった。光秀は既に40代であり、人生50年といわれた当時では高年齢だった。その光秀の初任給がいくらだったのか残念ながら資料がないが、当初から部長級以上の処遇だったことは想像できる。

光秀は元亀2年(1571年)に坂本城主に抜擢された。家臣団の中で城主になったのは光秀が最初だった。続いて秀吉が天正元年(1573年)に長浜城主になった。

この秀吉と光秀は、門地門閥がなくても、学歴が無くても、頑張れば報われる、という信長流の人材登用の見本だった。彼らの成功をみて、我こそはと思う人材が各地から集まったことは想像に難くない。

このように信長流の人材育成は、その恩賞の払い方が他の大名と異なっていた。それは長篠の合戦における信長の査定ぶりをみると良くわかる。それには次のような特長があった。

その① 大将自らが部下の働きぶりを見る(長篠の古戦場の信長の本陣跡に是非行って欲しい。そこに立てば、敵と味方を見渡すことができる。敵の鉄砲が飛んでくるかもしれないので安全性は低いかもしれないが、大将がそんな位置に居て、全軍を見ていることは士気高揚になったはずだ。長篠の古戦場跡はよく保存されている)

その② 一番槍一番首を評価する(一番槍とは先陣といい、一番先に槍をつけることだ)

その③ 情報を伝えた者を評価する

その④ 右筆(ゆうひつ)が手柄を公平に首帳(くびちょう)に記入する

その⑤ 恩賞の土地を残しておく

上記の中で「右筆が手柄を公平に首帳に記入する」という部分を説明しよう。右筆とは、本陣を固める馬廻衆であり、彼らは本陣からの指示を伝えたり、現場が指示を守ったのか報告をする役目を持っていた。いってみれば社長室のスタッフだ。その右筆は『首帳』という帳面を手にしており、いってみれば人事考課シートのようなものだ。そこにお手柄を書き込んだ。

そしてお手柄を上げた者には『感状』(かんじょう)が与えられた。『感状』とは、お手柄を書き記した書状だ。その『感状』は、その後土地を与えられることになるので重要な代物だった。

信長は家臣に対して多くの『感状』を出しているが、その多くは右筆が書いたものだ。信長自身が書いたものは希だが、それが今日に残っている。

信長が細川忠興に与えた感状

これ(写真=財団法人永青文庫所蔵)は、細川忠興に天正5年(1577年)に与えたものだ。松永久秀が信長に反旗を翻したが、その討伐にあたり、まだ15歳だった細川与一郎(忠興)兄弟が一番槍を行い、武功をあげた。信長は「年もいかない二人の戦いぶりは比類なきものである。末代までの面目をほどこした」と讃えている。

この感状は、戦国武士にとっては重要な意味を持っていた。軍議の席に於ける席順がそれで決まったからだ。感状を何枚持っているかということで席順が決まるシキタリがあった。軍議では上座の者から発言する資格があった。「私に先陣を切らせて下さい」と言い出すこともでき、お手柄を立てるチャンスにもありつけた。だから感状をもらうために、武士は命賭けで敵陣に突っ込んだのだ。

自分のメンツにこだわる武士の心を掴むことに長けた信長は、新しい恩賞も考案した。茶釜だ。家臣に与える土地が少なくなると、それに替わる恩賞の品が必要になった。そこで当時武士の間で広まっていた茶道具を与えることにした。

天猫姥口釜

これは天猫姥口釜(写真=藤田美術館)というもので、信長が大事に所蔵していたが、北陸攻略の恩賞の品として柴田勝家に与えた。

信長は、家臣が茶会を催すことを禁じた。その上で、特別な家臣にだけ茶会を催すことを許すようにした。このようにして、信長は、茶器を下賜する、茶会を許可するということで、家臣のやる気を喚起した。

オカネと酒でやる気を引き出す ヒトたらしの秀吉

秀吉は小柄であり、取っ組み合いには向かない。だが、秀吉には他に才能があった。人の心を巧みにとらえることだ。オカネと酒でやる気を引き出すという秀吉らしいエピソードが残っている。

まだ籐吉郎と言われていた頃のことである。清須城の塀が壊れてしまった。時は弘治3年(1557年)である。大雨のおかげで、城の塀と石垣が100間ばかり崩れてしまった。信長が24歳、籐吉郎が21歳であった。桶狭間の合戦の3年前の出来事で、当時は東海一の大大名の今川義元が調略により尾張の領土を侵しつつあった。

信長はすぐ修復工事を命じたが、いっこうに捗らない。噂によると、工事奉行が今川方に寝返っていて、自ら工事を遅らせているとか。籐吉郎は信長に聞こえるように、ぼそっと「これでは城が危ない」とつぶやいた。信長は普請奉行を交替させて籐吉郎に命じた。

籐吉郎は普請奉行を受けるにあたり、信長から500人の人夫と銭300貫文(現在の2400万円)を預からせてもらった。

籐吉郎は頭領や人夫を呼び付けて、一席ぶった。「この度は普請奉行を承ったにつき、いささかの懈怠(けたい)あるにおいては容赦せず」と高飛車に出たが、その後ぐっと砕けて「明日は酒販を与えるので休んでほしい。明後日から仕事を始めてもらう。組分けをしたから、それぞれの持ち場について、早さと正確さを競い合って欲しい。早かった組の者には定めの給与のほかに、賞与金を配ることとする」とした。そして籐吉郎は銭300貫文という銭を運んでこさせた。300貫文という銭は、数人がかりで運ばれて、台の上に載せられた。その大量の銭を見た人夫たちの目の色が変わった。

翌日の飲み会の席上では、籐吉郎が酒を注いで回った。その次の日の早朝から、金槌の音が始まった。賞与金を欲しくて、各組の者が競い合うようにして工事に励んだ。このおかげで修復工事はその日中に出来上がってしまった。

「こいつは出来る奴だ」

城に帰ってきて驚いた信長は、籐吉郎の能力を認めるようになった。これが籐吉郎の出世の第一歩だった。

籐吉郎はその後秀吉と名乗るようになり、大名となり、天下人になる。偉い人になっても、1つ続けてきたことがある。手紙だ。秀吉は学こそなかったが、それでも臆せずに直筆で書状を沢山出していて、それが今日でも残っている。秀吉は、どうも毎日書状を出していたようで、今で言うところの“手紙道”を地でいっていた。そこがヒトたらしの秀吉の真骨頂だった。

この感状は、賤ヶ岳の合戦で武功をあげた加藤嘉明に与えたものだ。賤ヶ岳の合戦は柴田勝家を破った戦いで、加藤清正や福島政則らが手柄を立て、7本槍と称された。秀吉は、感状を与えた後で、恩賞の土地を本人が驚くほど与えた。戦国大名の中で、このように直筆の書状が沢山出てくることは珍しい。

こんな秀吉流の恩賞の払い方をまとめると、次のようになるだろう。

その① 仕事の目標を明確に示した上で競わせる

その② まず相手を褒める

その③ きちんと査定をする

その④ 本人が驚くほどの恩賞を与える

その⑤ 感謝の気持ちを手紙で伝える

ヒトのやる気を引き出すものは、オカネとお酒である。その点は今も昔も変わっていない。現代の経営者も改めて戦国武将から人身掌握を学んで欲しい。