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『給与問題』で四苦八苦! 北見昌朗のプロフィール

36協定の届出日本1!

「なぜ賃金のコンサルタントになったのか?」
北見昌朗が平成7年の時に創業した時の志を話しています。

北見昌朗の初の出版(平成9年)を語る北見昌朗

北見昌朗は平成9年に初の出版をしました。『中小企業の賃金管理 これだけは知っておきたい』(東洋経済新報社)です。その頃の想いを話しています。この出版のおかげで、我が人生の恩師である遠山昌夫先生から遠山賞を授与されました。北見昌朗にとっては、忘れられない想い出です。

戦国の恩賞を調べた「織田信長の経営塾」(講談社)を出した北見昌朗

北見昌朗は『織田信長の経営塾』(講談社)を平成15年に発売しました。これを機に歴史モノを書くようになりました。その経緯を話しています。「我が人生を変えた1冊でした」

童門冬二氏が絶賛!北見昌朗「豊臣秀吉に学ぶ経営」

童門冬二氏が絶賛! 北見昌朗は『豊臣秀吉に学ぶ経営』を著して、童門冬二氏から推薦状を書いていただきました。

『労務管理』が専門のハズだったが…

私は零細企業の社長です。ちょっと恥ずかしいですが、私のボヤキを聴いて下さい。

私は、平成7年に開業しました。もう、かれこれ20年ぐらいになるのですが、本当にあっと言う間でした。振り返ってみますと、何に苦労したかと言いますと、実は『労務管理』です。

開業は自宅の2階でしました。8畳一間です。やる気なら山ほどありましたが、お金はありませんでしたから。

会社設立記念セミナー
会社設立を記念して、北見のファンが大応援団を結成して、設立記念セミナーを主催してくれた。平成7年2月15日、栄の丸栄カーネーションホール。100人以上の参加で大盛況。だが、北見はこの時が人前で話した初体験だった。緊張のあまり、うろたえ、早口になり、2時間話すべきところ40分で終わってしまった。『さあ大変、あと1時間20分、何をしゃべろうか?』。時計を見ながら壇上で困り果て、顔面蒼白に! それにしても肩に力が入っている。いやはや、思い出しても赤面の至り。講演恐怖症はその後も続き、前日の夜から眠れなくなってしまった。ようやく慣れたのは、開業後3年目にしてであった

ゲエッ! 最初の女性従業員には2週間で辞められる

開業と同時に雇用したのは女性でした。『経験者』ということで雇いましたが、実際には自分では何もできない方でした。その女性は『私一人に責任を負わされるのは嫌ですからスグもう一人雇って下さい』と要求してきました。当時の私は資金的にピンチの時、もう一人の雇用なんてできるわけがありません。『できません』と断ったら、スグ辞められました。ゲエッ! これにはホントに困りました。経営者と従業員との間の大きなギャップを感じた最初の体験でした。自分には人を雇う能力がないのかと悩みました。これが“人の問題で悩まされる社長業”の始まりでした。

その後は、社労士の有資格者を入れましたが、定着することがありませんでした。当時の私はまだ30代で、営業活動で顧客が急激に増えていました。所長の私は、顧客増にホクホクでしたが、職員にしてみれば『自分たちの仕事が増えるだけ』というのが本音のところだったのでしょう。

クソッ! 私を奮い立たせてくれた銀行

そんな私を奮起させてくれたのは、銀行でした。開業資金を借りに行った先は銀行でした。私は会社員時代に定期積み金を行い、500万円の預金がありました。だから貸してくれるものと思いました。ところが、銀行本店に行きますと、まともに話も聴いてくれません。私が事業計画書を前に出して説明しようとするのに、それを見ようともしないのです。そして一言。『事業実績のない人に貸すお金はない』。

その慇懃無礼な態度は今でも忘れられません。借入を諦めた私は、帰る時に『それではカードローンの申し込みだけします』と言いました。すると銀行員は『今の話(退職)を聞いたので、作れない』というのです。たった30万円のカードローンさえ利用できないというのです。私は怒りで身体がブルブルと震えました。

それは平成6年の12月の寒い日でした。木枯らしの吹く中、私はトボトボと歩きました。銀行本店のある栄から名古屋駅までです。会社を辞めると、信用はゼロになることを思い知らされました。

翌日、再び銀行に行って口座を解約しました。『今に見ていろ銀行め!』。銀行を見返してやるだけの会社になってやる。この屈辱は、私を大いに震え立たせる原体験になりました。

経営計画書
銀行員が見ようともしなかった北見の経営計画書。タイトルは社名が未定だったので「北見人事管理研究所(株)の10ヵ年経営計画書」となっている。15ページあり、中には「10年後に顧客を300社まで拡大して、愛知県下トップの社労士事務所になること」と書かれている

ウンザリ!『給与が低い!』『低くない!』で言い合いに

独立後2年目の北見昌朗
平成9年2月、名古屋の書店で。
右下にあるのは処女作『中小企業の
賃金管理 これだけは知っておきたい』
(東洋経済)。平成7年の独立後2年目
のこと。当時38歳。自分の名前で本を
出すことは長年の夢でした。とにかく嬉し
く、家族を引き連れて書店に行きました。
妻に写真を撮ってもらいました。
右は処女作『中小企業の賃金管理 こ
れだけは知っておきたい』。発売された
時は、嬉しくて嬉しくて何回も何回も本
にキスしたものだ。

どうしたら顧客を増やして、業績を上げることができるか? 私は年がら年中、考え続けました。おかげさまで営業的には順調に伸びていきました。でも、事務所の労務管理には大いに悩まされ続けました。急成長すると仕事が大変になるので、従業員の定着は悪くなるものです。

職員とは、給与面で言い合いになったことがありました。職員いわく『社労士の仕事は裁量労働がふさわしいほどハイレベルである。しかるに当社の給与は低過ぎる』。これに対して私は『社労士の世界はこんなものだ』と反論しましたが、議論は平行線を辿るだけでした。

『給与が低い』という従業員、『いいや、うちの業界の給与はこんなものだ』と反論する経営者、その構図は当社にもありました。この時の悔しい体験が、後に『ズバリ! 実在賃金』の開発につながります。『給与をきちんと払っている』と、ガツンと言い返したい社長を援護射撃したいからです。

チキショー! 従業員に『見限られた社長』の悔しさ

そういえば、こんなこともありました。社労士として入社して3年目の女性が退職したのです。その時に職場では『待遇の良い会社に転職できたらしい』という噂が広まり、私に対して『それ見たことか』と、しらじらとした冷たい視線が集まったものです。

この退職劇は、悔しかったですね。『畜生! 絶対に良い給与の会社になってみせる』と誓ったものです。『社労士業界並みではダメだ。一般産業界並みの給与水準になろう』と心に誓いました。私は『良い顧客、良い仕事、良い顧問料、良い給与』を目指して氣合を入れました。毎日毎日、ダルマに向かって目標必達を誓いました。

カツカツの零細企業は辛いよ

仕事は一応社労士をしています。だから最近の法改正を話すこともあります。でも話していて思うのです。『いったい企業に対してどこまで求めるのか!』と…。だって改善するには費用が要りますが、それを負担できる中小企業は少ない。カツカツの経営のところが大半ですから。役人はそこをわかっていない。規制強化ばかりでは、もう人を雇わなくなります。従業員の雇用を増やしていることを評価して欲しい。

ゲッソリ! 社会保険料を払うのに四苦八苦

それにしても、社会保険料って高いですよね。高過ぎますよね。私は、社会保険に加入できるようになるまでに、開業して何年もかかりました。

トホホ! どなたか私の労務顧問になってほしい

業績が上がり、昇給できた時は嬉しかったですね。賞与を増やせた時は、エヘンどんなものだと思いましたね。でも、昇給したくても原資がない時は、思わず溜め息、フッー!

私は、給与のコンサルタントです。その私が一番苦労してきたのは実は『給与』なのです。これって笑い話のような気がするかもしれませんが、実はそうなのです。
職員数は増え続け、今では30人ぐらいいて、有資格者数は20人近くいます。人数が増えて感じるのは、労務管理が難しくなってきたことです。人数に二乗三乗するかのように難しさを感じるようになっています。昨今はメンタルな面の問題も起こり得ます。

私にも労務の顧問がほしいとしみじみ思っています。私の愚痴を聞いて、励ましてほしい。

もう、やってられないと呑むことも

こんな私ですから、時々憂さ晴らしで酒を飲むこともあります(といっても明るいお酒ですよ)。正直やってられなくなり、時には溜め息も。心中にあるのは『人間は難しい』ということ。こんな人間ですから『労務管理はこうあるべき』と言い切るだけの自信はありません。ますます難しさを実感するようになっています。

まあ、強いて自信があることといえば、社長と共に悩むことでしょう。社長と共に喜び、悩むことなら、できます。お暇があったら、盃でも交わしましょう。美味な日本酒を教えて下さい。

負けるものかと年中無休

私は、開業以来、年中無休を標榜してきました。実際、毎日働いています。お盆もお墓参りをしてから出社です。元旦も初詣の後で出社です。正直、会社が一番落ち着きます。なんといいますか、私の居場所です。

北見昌朗と『愛知千年企業 明治時代編』

平成25年7月。『愛知千年企業 明治時代編』を平積みで売ってくださっている三洋堂書店様で。

(独白『それにしても月日を感じますね。処女作を出した平成9年とは顔が違う?』)

世の中がどう変わろうとも、これが私の人生観

社員あっての会社、会社あっての社長、社長あっての社員

『社員あっての会社、会社あっての社長、社長あっての社員』

名古屋の美酒『九平次』を愛する北見昌朗

名古屋の美酒『九平次』
『九平次』。うめんだな、コレが!

>>「北見昌朗の生い立ち」につづきます。

落ち込む男

それは一本の電話から始まったとです

そんな殺生な。ご勘弁を

お電話切らないでください

あー そんな馬鹿なあ!!!

これで我が社はどうなるの?

弱ったなあ

あー

ガックリ

もうお手上げか?

もう退場させていただきます

それは一本の電話から始まったとです