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北見昌朗のプロフィール~生い立ち

北見昌朗 赤ちゃんの頃

北見昌朗は昭和34年1月31日生まれました。4人兄弟の3番目で2男です。生まれたのは名古屋市中川区畑田町にあった市営住宅でした。お産婆さんが来てくれたそうです。母は「お前は生まれた時は丸い可愛い顔だったのに、長くなってしまった」といつも笑って言いました。左の写真は、顔が長くなってしまった頃の赤ちゃんの写真です。

生まれた年の9月に伊勢湾台風が襲ってきました。我が家は近くの高校に避難して、危うく難を逃れました。この台風で、同じ地域で多くの死者が出ましたので、我が家だって全滅してもおかしくなかったと思います。

父は、北見昌朗が生まれた頃、肥料屋に勤務していました。自転車の荷台に肥料を山のように積んでいくのです。イルカの肉だったと思いますが、悪臭でした。もう臭いのなんの、鼻がひん曲がりました。

北見昌朗 こどものころ

母は、縫製が好きで、子供たちの服を自分で作っていました。この写真はたぶん3歳ぐらいです。母が作ってくれる服はあか抜けていません。北見昌朗はいつも母親を追っかけて付いていったそうです。この写真も、たぶん「おかーちゃーん」と言って泣いているのでしょう。

北見家は貧しい庶民でしたが、暖かい愛情にあふれた家庭でした。

しょっちゅう叱られていました

父は保郎といいます。大正14年の生まれです。保郎の父(北見昌朗の祖父)は職を転々としたので家族は貧困でした。愛知県立商業高校という当時の名門校を出たのが自慢でしたが、学費を払うことができず辛い思いをしました。教師に呼ばれ「北見、学費はどうした?退学だぞ」と言われるのですが、保郎は「忘れました」とうつむいて答えるほかありませんでした。

この辛い体験は、後に何度も子供に言って聞かせました。家族に絶対に苦労させないという保郎の固い決意は、こんな体験から生まれたものです。

終戦後は、納屋橋近辺で闇屋を3年ほどしていたそうです。栄養失調で肺病を病みました。

昭和23年にようやく就職ができました。店主を含めて、自分を含めて3人というところで、肥料を農家に売る仕事です。自転車の荷台に肥料を山のように積んで、農家を回り、外商をするのです。この肥料屋勤務は、10年以上続けました。父にとっては下積み時代だったのでしょう。

昭和30年代に証券会社に転職して、外務員になりました。ここで生きたのは肥料屋時代に培った人脈でした。農家に、株式を売りまくったそうです。日興投資信託という会社があって、その名古屋支店で、43年から63年まで販売実績1位を獲得しました。

トロフィー
北見昌朗父・保郎
父保郎。販売実績1位を達成し続けた40代の頃だと思われる。

いまでもトロフィーが(株)北見式賃金研究所に飾ってあります。昭和44年となっています。北見昌朗にとり、宝物ですから、ガラスケースに入れてあります。父は、独立独歩の精神で生き抜くことを、身をもって示しました。

父は証券会社時代、90CCのオートバイに乗って走り回っていました。成功して年収が増えても、車に乗りませんでした。北見昌朗は子供の頃、そのオートバイの後ろに乗せられましたが、必死になって父親にしがみつきました。今から思うと、あんな怖いことを子供によくさせたものだと思います。

この父は、子供たちにとっては怖い存在でした。しょっちゅう叱られていました。モノを粗末にするとカンカンになります。電気をつけ忘れようものなら何時間も怒鳴られました。

北見昌朗は、父から営業力というDNAを受け継ぎました。

北見昌朗の大学時代

北見昌朗は豊橋にある愛知大学に昭和53年に入学しました。

当時の夢は小説家になることでした。古本屋ばかり回る根暗な学生でした。身長は170センチですが、当時の体重は50キロちょっとしかなくヒョロヒョロでした。

中部経済新聞の記者時代

北見昌朗 新聞記者時代 新聞記者時代の北見昌朗(当時28歳)

昭和57年に大学を出て入社したのは、中部経済新聞という地元の日刊紙でした。新聞社としては小さなところでしたが、ここに入ったことが北見昌朗の人生の幸運でした。ここでは文章を早く、わかりやすく書くことを訓練され、特訓の毎日でした。先輩に恵まれて、厳しいシゴキを受けたことが、その後の人生の肥やしになりました。

新聞記者をしていると、世の中の動きとか、傾向がよくわかります。いわゆるトレンドというものをキャッチするセンスがここで身につきました。地元の経営者の人脈もできました。

新聞記者は、現場では1対1の戦いになります。そこでは、大手新聞も中小新聞もへったくれもありません。抜けば良いのです。勝てば良いのです。

毎朝すぐ行うのはライバル紙を見ることです。ビクビクしながら開くのですが、抜かれていると落ち込みます。腹が立ってならないのです。負けた自分に対してです。「チクショー!」という悔し涙です。

「どうしたら勝てるか!」。私は勝つことのみを考え続けました。

勝てる方法が1つ見つかりました。それは取材回数の多さでした。どんなに頭のいい人であっても、こちらの方が取材回数で勝ると勝てるようになるのです。フットワークこそ勝敗を決するのです。

もう1つ決定的な勝つための秘訣が見つかりました。出社時間を早くするのです。1時間早くです。前日から準備をしていた上に、当日も1時間早く出社して取りかかるのです。

単純なことですが、これを実行すれば、たいてい勝てるようになりました。

それから失敗を重ねながら「重要なタイミング」のつかみ方を覚えました。経済関係ですが、たまに事件が起きるのです。例えば、松坂屋のお家騒動がそうでした。伊藤次郎左衛門家の当主が社長によって解任されたのです。番頭が主を切ったも同然ですから騒然としました。

そんなことは、滅多にない事件ですから、ここで思い切り書いて存在感を発揮しなければなりません。「10年に1度あるかないか」の大仕事です。

「勝負どころ」という言葉があります。今がその時だと感じたら、すべてを集中して一気にやり遂げるべし、勝つべし、という姿勢はここで叩き込まれました。

北見昌朗の得意技は「スピード」と「言葉力」です。それが新聞記者時代に叩き込まれたのです。

また、新聞記者という役柄を生かして、普通では会えないような優れた経営者に会えたことが大いに勉強になり、財産になりました。もちろん「成功した経営者」にお会いすることが多いのですが、時には「倒産」を取材することもあり、経営者の失敗を目の当たりにしました。

取材ではありましたが、無数の事例を見させていただくことにより、経営とは何か? 経営戦略とは何か? などを自分なりに考えました。

この「取材体験」が、その後の経営に大いに生きてきたのです。

父が独立の見本だった

中部経済新聞には35歳までの12年間勤務しました。独立にあたり、見本にしたのは父保郎でした。父は、こんな風に見えました。

  • 男一匹勝負している(証券外務員は従業員ではありません)。
  • 地元に特化している(会社員のように転勤がない)。
  • 証券という同じ仕事を30年間以上も続けている。

そこで北見昌朗はこのように思い定めました。

  • 男一匹勝負する(どこにも頼らず、独力で生き抜く)。
  • 突撃の営業力で勝負する(父親譲りの営業力では誰にも負けません)。
  • 勝てる土俵を創り出し、勝てる相撲だけをとる。
  • 「給与コンサルができる社労士」に特化して勝負する。
  • 地元に特化して勝負する。

こうして、独立したのは平成7年1月のことでした。36歳でした。

この独立は、北見昌朗にとり、一世一代の勝負でした。悩んでいた頃にある研修を勧められました。DNPという研修でした。30万円を振り込んで、姫路の書写山に1週間の研修に参加しました。

その研修では大きな気づきが得られました。そこで覚悟ができました。

その覚悟とは「失敗覚悟で勝負する」というものでした。それまでの自分は「失敗したらどうしよう」と悩んでいたのです。

腹が据わった北見昌朗は、その晩に「人生計画書」なるものを書き上げました。これが、それです。下手な文字で恥ずかしいのですが、お見せしましょう。

人生計画書(画像をクリックすると拡大版をご覧いただけます)

人間、いわゆる背水の陣を敷いてしまうと、もはや怖いモノはありません。猪突猛進です。DNPの研修を経て、すぐ行ったのはNHKの集金所でした。北見昌朗は突然入っていくなり「私を雇ってくれますか?」と質問しました。NHKは「業務委託だから雇用関係ではない。仕事は出せる」と答えました。社会保険労務士を開業するといっても顧客はゼロだから、収入のアテはない。だからNHKの集金人の仕事をやって食いつなごうと思ったのです。

私は家に帰るなり、妻に向かって「生活費だけは渡すから、ワガママを聞いてほしい。会社を辞めて社会保険労務士を始める」と言いました。その際は「実はNHKの集金人をやるんだ…」とは言えませんでした。妻は意外にも「ウン」と答えてくれました。実際には、おかげさまで応援して下さる方もいて、NHKの仕事はやらずに済みました。

こうして平成6年12月に退職して、7年1月に自宅の2階で創業しました。ここから、持ち前の営業力を生かして、がむしゃらの突撃が始まります。寝る間も惜しんで働くようになりました。当時はまだ30代、怖いモノ知らずでした。

20年経った今では懐かしい想い出です。

父は平成24年に亡くなりました。亡くなった後で、父の写真とかいろいろ整理しましたが、給与明細が出てきました。数十年分もの給与明細が全部大事にしまってありました。その給与明細の中身を見ると「基本給12万円 歩合◎万円」でした。最低保障が12万円しかないのです。

北見昌朗は、それを見て思わず目頭が熱くなりました。生前にはなかなか言えない言葉でしたが、「とうちゃん、家族のために、ありがとう」と心の中で言いました。

あの努力とか、不屈の意志は、とても真似できません。父を超えることなど、到底無理です。この世で一番尊敬するのは父です。

母は平成26年に亡くなりました。最愛の母を失うことは、耐え切れない悲しみでした。何日も泣き続けました。この世で一番好きなのは母です。

二人の子供として生を受けたことは、北見昌朗にとり誇りです。

平成27年5月筆

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