「給与」の歴史 明治から戦後に至るまでの変遷
正規従業員と非正規従業員との間の格差が問題になっています。ハマキョウレックス事件は2018年に最高裁判決が出て、会社が敗訴しました。長澤運輸事件では、定年後の再雇用者の賃金が問題になりました。
この格差問題は、昔から根深くありました。戦前は身分制とも言えるほど大きな格差がありました。ホワイトカラーの「社員」とブルーカラーの「職工」とでは雲泥の差があった。
戦後は労働民主化の要求の中で、かなり格差が解消されました。
給与の歴史を探ってみましょう。
【明治から戦争まで】
従業員の種類は?
戦前、会社身分制の下でホワイトカラー(「社員」「準社員」)とブルーカラー(「職工」「工員」「労務者」)の間にはさまざまな待遇格差が存在した。
会社に勤めることによって得る対価についても、ホワイトカラーとブルーカラーでは呼び方が異なっていた。ブルーカラーは「賃金」(「賃銀」とも書く)と呼んだ。ホワイトカラーは、「俸給」と呼んでいた。
戦前には、「賃金」と「俸給」はまったく別の世界に属していた。そのため両者を包括する言葉はなかった。
戦前においては、「報酬」という言葉は、多くの場合、会社の取締役(重役)に支払われるものを指していた。
毎月の給与は?
戦前の会社身分制のもとにおいて、「社員」の給与は完全な月給制であった。月額が決まっており、欠勤しても、長引かない限り給与が差し引かれることはなかった。また逆に、一応の勤務時間は決まっていたものの、遅くまで働いても、今日の意味での時間外手当は支給されなかった。
職工の賃金は、「日給」であった。月給制と違って、職工には今日の意味での時間外手当が支給された。
職工の日給は就業時間に対して支払われたのではなく、休憩時間を含む一日の拘束時間全体に対して支払われていた。日給が時間給でなかったことは、たとえば官営八幡製鉄所のように、早退した場合、働いた時間が6時間以下であれば無給、6時間以上であれば「五歩」とする規定に表現されていた。そこには、時間給のような、賃金=時間賃率×実労働時間とする考えがなかった。
日給は職種とは関係なく、人事評価にもとづいて昇給した。たとえ評価が低くても日給額が下がることはあまりなく、勤続を重ねて昇給を経験することで日給額は上がった。日給額は背番号のようにその職工の標識となった。日給は、勤続年数や技能を反映した属人給であった。
職工の昇給は年2回定期的におこなわれた。
会社は、出勤を確保するために、皆勤者や欠勤日数の少ないものに賞与を与えた。
賞与は?
日本における賞与の起源は江戸時代の商家における盆暮れのお仕着せにある。
日本において賞与が支給されるようになった理由は、日本の商慣習と生活慣習にある。江戸時代、コメ、醤油のような生活必需品をはじめ紙や呉服などほとんどのものについて、掛け売り掛け買いが一般的であった。掛け買いは月末に精算したりしたが、なんといっても大晦日が最大の山場であった。井原西鶴『世間胸算用』(1692年)はその副題「大晦日は一日千金」とあるように、大晦日に売掛金を回収しようとして必死の商人と、それを逃れようとする町人たちを生き生きと描いている。
会社にとってもっとも重要だったのは社員である。そのため会社はまずはじめに社員の生活を保障するために社員に歳末手当を支給するようになった。
住友合資でも社員に多額の賞与が支給された。普通賞与と特別賞与を合わせた年間の賞与額は、月俸160円未満では10ヵ月分、400円未満では14ヵ月分、400円以上では30ヵ月分となった。
会社は、会社から見た重要性の順番に、準社員・役付職工、職工と支給範囲を拡大していった。
中元手当は、歳末手当よりもずっと遅れて支給されるようになった。『三菱社誌』に中元手当の記事がはじめて記載されたのは、1890年7月16日であった。それ以前は、おそらく支給されていなかったものと思われる。
こうして賞与が継続的に支給されるようになると、賞与の支給を前提とした生活が形成される。
退職金は?
退職金の起源は江戸時代の商家における暖簾分けにある。
退職金規定は、ほぼ20世紀になってから普及しはじめたといってよい。
三菱と三井では、長期間勤続して退社した社員に、以上のような退職金とは別に、年金を支給した。三菱では、勤続25年で、毎年、退職時の給料年額の4分の1、三井では最終月俸の3ヵ月分であった。
【戦時中】
従業員の種類は?
1942年2月24日に公布された重要事業場労務管理令は、「工員」と「職員」を包括する概念として「従業者」という言葉を用いた。「工員」と「職員」は別の世界に属しているという戦前の常識からすれば、両者が包括された「従業者」という法的概念は、たしかに大きな変化であった。
しかしこの重要事業場労務管理令においても、「賃金及給料」(第11条)とか「賃金、給料」(第13条)のように、「賃金」と「給料」は別のものであり、両者を包括する概念はなかった。
毎月の給与は?
職工については、中途採用が主力で、定期採用は採用の基本ではなかった。そのため、社員や準社員のような一律的初任給は成立しなかった。
職工の初給は、多くの場合、年齢によって決った。たとえば王子製紙では年齢別の初給であった。王子製紙の場合、まずはじめに男性は満20歳、女性は満18歳の初給を世間相場で決め、それをもとに年齢別の初給を決めた。
賞与は?
社員は年間で俸給8~10ヵ月分、役職者では1年分あるいは2年分にもなる高額の賞与が支給された。
職工は、年間の賞与は1ヵ月分程度であった。
退職金は?
社員の場合、長期勤続者の退職金は、三菱の事例では25年勤続者で最終月給の約16年分にもなった。
社員には、退職金に加えて終身年金も支給された。
多くの職工の勤続年数は短かったので、退職金は支給されないか、あるいは支給されたとしてもごくわずかの額であった。一部に長期勤続の男性職工がいたが、たとえ35年間の勤続であっても、退職金は2、3年分程度にすぎなかった。
退職理由によって、支給月数(日数)が異なっていた。停年や会社都合による退職の場合に比べて、自己都合で退社する場合は支給日数が大幅に減額された。
支給額の計算は、日給に勤続別係数を掛け、さらにそれに退職理由別係数を掛けるのが大部分であった。
三菱長崎造船所において、職工の退職金のはしりは、1897年12月23日の「職工救護法」である。この制度では、勤続年数5年以上の職工を優遇することによって、長期勤続を奨励しようとしたものであったが、実際には、毎年1500~2000人の退社者の圧倒的多数が5年未満であった。