北見昌朗に講師をご依頼ください
老舗に学ぶ、永続的発展の秘訣
平成27年9月10日 講演の骨子
継がせる側の心構え
- 歴史に学ぶ! 武田信玄と勝頼
- 信玄は嫡男義信と不仲になり、義信を自刃に追い込んだ。(武田家の悲劇の始まり)
- 信玄は、勝頼(側室の子)に対する後継者指名をご臨終の場で行った。しかも「陣代」(当主代理)という立場だった。
- 信玄は、勝頼に、成功体験を体験させた。(三方ヶ原の合戦)
- 後継者としての能力を証明するため、勝頼は長篠の合戦に挑んだ。
《現代の経営に置き換えてみると》
Q 継がせた信玄が悪かったのか? 継いだ勝頼が悪かったのか?
Q 早めの後継者指名、トップ交替が必要だ。一般的には65歳ぐらいではないか?
Q 株主構成が問題ではないか?
Q 兄弟が一番もめやすいのではないか?
Q そもそも継がせる価値があるのか? 継がせて苦労させないか?
Q 我が子は、経営者として、やっていけるか?
Q 他人が後継者でも良いのではないか?(個人保証が不要な場合もある)
Q M&Aという選択肢もあるのではないか?
継ぐ側の心構え
- 歴史に学ぶ! 武田勝頼と徳川慶喜に学ぶ
- 共通点は、幕引き役。だが、両者の間には大きな違いがある。
- 武田勝頼は、破滅型(メンツにこだわって自滅し、皆を不幸にした)
- 徳川慶喜は、再生型(メンツにこだわらずに、身を引き、新生日本を生んだ)
《現代の経営に置き換えてみると》
Q どんな会社も、いずれは終わる。問題は「終わり方」ではないのか?
Q いつでも「終われる経営」に徹することが、「続く会社」になる秘訣ではないか?
Q 貸借対照表では、実態が読めないのではないか? 会社を清算した時に残るか?
Q 必要以上の節税は結局会社を弱くするのではないか? 自己充実にならない?
Q 成功かどうか、経営者の評価は、先にいってみないとわからないのではないか?
セミナー「業績連動!全社一丸となる年収の払い方」
十六銀行の中村支店主催のセミナーで講師をさせていただきました。
テーマ「業績連動! 全社一丸となる年収の払い方」(平成25年12月)
セミナー「高齢者の賃金の決め方」
豊田商工会議所でセミナー「高齢者の賃金の決め方」
平成25年10月28日 100人の参加で盛況でした。有り難うございました。
瑞穂ロータリークラブで卓話を務めさせていただきました。
信玄・謙信に学ぶ事業承継
私の本業は中小企業の社員の給与をどう決めるかということが専門なのですが、その傍ら日本史好きが高じて「歴史に学ぶ経営」というジャンルで本を4冊ほど出版しております。今日はその話をさせていただきます。
そもそも武田家や上杉謙信がなぜ事業承継なのかという違和感がおありかもしれません。戦国大名にも色々ありますが、死とともに家が没落・衰退していった人の中には武田信玄と上杉謙信がいます。この偉大な大名のどこがいけなくて没落していったのかを考え、今の時代のオーナーの方々にとって他山の石になればと思います。
武田家についてですが、一般的に信虎、信玄、勝頼のことを「武田三代」といいます。武田家を潰した要因として一般的には信長のハイテクな攻撃に武田家のローテクが負けてしまったと言われていますが、そうではありません。実は既に戦う前から内部崩壊をしていたのです。
武田家を潰した要因は不和です。「親子」「男女」「家臣との関係」など色々な不和の連鎖が因縁のようにありました。信玄が信虎を追放したのはまだ20歳の頃で、自分でプランニングをするほどの力量があったとは思えません。重臣たちが信玄を担ぎ上げ、ワンマン社長の信虎を追放しました。
また、信玄と正妻の息子、義信は大事にされすぎてわがままに育っていき、信玄とさまざまな対立が起こっていきました。そして結局義信は自害します。これがきっかけで武田家の滅亡が始まったと言われています。本来の後継者がいなくなり、家督は信玄の臨終の席で勝頼に継がせました。死と共に家督相続をさせたのは最大の失敗であったと私は思います。
勝頼が家督を継いだものの家臣からは全く信頼を得られず、長篠合戦で信長の攻撃に勝つと思っていたのは自分だけで誰もそうは思っていなかったのです。攻撃を受けるときにはすでに内部は崩壊しており、この数年後には武田家はこの世からなくなりました。
この信玄の失敗から学ぶこととして、継がせる側の教訓をいくつか本の中にまとめてみました。先ずオーナーに申し上げたいのは、家督相続(社長交代)を何歳でするのかという年齢を決めた方がいいのではないでしょうかということです。
私の独断と偏見ですが「社長65歳引退説」ということを考えています。肉体年齢が健康なことも大切ですが、65歳という年齢になると同世代の友人たちは大手にいる場合すでに引退しており、情報が入ってこなくなります。本人は気づかないのですが、実際は情報の断絶ということになります。これが一番大きな要因ですが、何歳で後身に道を譲るかを決めた方がいいのではと思います。そして、任せるとなったら全て任せてしまわないと後継者は育ちません。ということで「会長さん元気で留守がいい」です。望まれることは会社に行かないこと、役員会も出ないこと、ものは言わない・見ない・聞かないことです。早め早めに行動することが続ける要点であると思います。武田三代が潰れた要因から学ぶオーナー会社の事業承継の教訓です。ご静聴ありがとうございました。(瑞穂ロータリークラブ「Weekly Report」より)
講演テーマ: 豊田佐吉翁~明治名古屋の偉人の歴史を語る~
講演テーマ: 歴史再発見! 名古屋の繊維の商人の活躍
名古屋商工会議所 繊維部会の総会で講演(平成24年5月28日)
講演テーマ: “モンスター社員”から会社を守る労務管理セミナー
レジュメの一部をここにご紹介します。よろしくお願いいたします。
「最新の給与の動向」をテーマにセミナーをしている北見昌朗
名古屋学院大学の大学院で(平成23年12月17日)
東京中小企業投資育成会社でセミナーをしている北見昌朗
参加者80人で盛況で、大変光栄でした。(平成24年2月20日)
テーマは「今年の給与改定 ココがツボ」。
講演テーマ: 歴史に学ぶ経営のジャンル
- 「古地図を手に語る 明治時代の名古屋」 新テーマ
- 「幕末の動乱を生き抜いた名古屋商人に学ぶ」 新テーマ
- 「信長・秀吉に学ぶ恩賞の払い方」
- 「信玄・謙信に学ぶ事業承継」
講演テーマ: 労務コンサルのジャンル
- 「これなら業績が上がる! 給与制度の作り方」
- 「中小企業の給与相場がわかるズバリ! 実在賃金」
- 「従業員とのトラブルを回避! 就業規則を作成する時のツボ」
お引き受けする地域 | 愛知・岐阜・三重に限定(㈱北見式賃金研究所から1時間の範囲内とさせていただきます) |
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講師料 | 2時間で5万円以上(応相談です) |
ロータリークラブ・ライオンズクラブでの卓話 | 喜んでお受けさせていただきます。費用は問いません。 |
商工会議所や法人会等公的団体での講演 | 喜んでお受けさせていただきます。費用は問いません。 |
北見昌朗の講演
「古地図を手に語る 明治時代の名古屋」の講演要旨です
<名古屋の旧町名復活を目指して>
江戸時代の名古屋の生い立ちについて
家康公が清洲越しをしましたが、清洲城があるところが海抜5メートル。名古屋城があるところは15メートル以上あります。名古屋城の場所に立てば全部見渡せるポイント。つまり、5メートルから15メートルへ高台移転したのが清洲越しです。
駿河湾沖の東海大地震というのは160年前、嘉永7年です。その津波というのは、堀川まで襲来しました。尾頭橋まで達して、以西を冠水した。つまり、伊勢湾台風の冠水エリアと全く同じです。そういうようなことがあって、それで名古屋城の北側の名城公園、これは巨大な沼でした。そうすると最北から攻め入るときに、堀川があるため攻められない。
名古屋は非常に攻めにくい城塞都市だったのです。
古地図を見ると笹島に「支那忠」とありますが、これは乃木大将が泊まった旅館です。明治19年に名古屋駅ができ、あたりは葦がしげる沼地でした。地盤の悪い場所です。東の方を見てみるとチンチン電車が走っていたのがわかります。
蒲焼町は今の「錦通」のことです。一説によると、名古屋城、築城の際に、職人さんたちが、蒲焼を食べる店が一杯並んでいたといわれています。?
世の中、伝馬という場所が多いですが、ここは飛脚の場所です。江戸時代はこの伝馬町と本町がクロスするところ、ここに「札の辻」という立て札があります。伝馬町を本町からちょっといきますと名古屋銀行(東海銀行の前身の1つ)があります。場所は、現在の八木兵本店です。これをつくったのはタキヒョーの滝さんです。
その下に明治銀行がありますが、この銀行を作ったのは奥田正香さんです。この奥田正香さんは20年以上、商工会議所の会頭をやったドン中のドンです。既存の勢力に対抗する意味で作ったのが明治銀行。現在は、八木兵さんの伝馬町支店になっています。
そこからずっと西を見ていきますと三井銀行があります。さらに、第一銀行があり、関戸銀行があります。この伝馬町は、明治名古屋のウォール・ストリートでした。
豊田佐吉翁にまつわる明治時代の名古屋の話
現在のテレビ塔の西側に、たての街がありますが、そのもう1ブロック向こう側が朝日町です。ここは、豊田佐吉翁の創業の地です。佐吉翁は慶応3年生まれ。湖西市で貧しい農家に生まれ、お母さんが機織をやっていました。その、機織を自動化するということで、織機の開発が始まるのです。湖西で過ごし、半田の乙川というところに行き、そこで織機の開発にめどをつけます。これで俺もいよいよ創業するんだ、といってスタートを切ったのが、この朝日町です。翌年に移転したのが現在のテレビ塔の南側、宝町。
次に引っ越したのは、現在も残っている武平町です。桜通にあるトヨタホームの東側にマンションがあります。そこが武平町工場の跡地です。そこは300坪の敷地がある本格的な工場でしたので、そこから世界にめがけて織機の輸出が始まりました。非常に一躍脚光を浴びたものですから、大隈重信など、全国の著名人がどんどん視察に訪れた場所です。
佐吉翁というのは、商売人ではありませんので特許権、知的財産権などというような発想はあまりない。実際には開発にお金を使いすぎまして、豊田式織機で解任になってしまいました。そこでアメリカに行って見たのが、自動織機だったのです。今度は、大手の力を借りずに、自分で借金してやるんだということでやったのが、栄生のノリタケの場所だったのです。これができたのは大正元年ですからすでに彼は45歳。当時の45歳というのは、感覚としては今の55歳よりもっと上です。60歳近くの人が、人生再チャレンジの場所だったのです。清水口のところにダイキン工業がありますがそこが豊田佐吉翁の邸宅跡地です。
道をまたいで、豊田利三郎さんという名前があります。この方は、娘婿です。佐吉翁は発明ばかりやりますので、実際に豊田という会社の実質的な切り盛りをしたのはこの利三郎さんです。その南側にあるのがソニーの盛田さんのご自宅。そのまた横になるのが、豊田喜一郎さんです。
喜一郎さんを生んだのは、たみという人なのですが、佐吉翁がどんどんと借金をするものですから、愛想を尽かして出ていったのです。当時、少年だった喜一郎は湖西にいたのですが、佐吉翁が再婚し、呼び寄せて一緒に暮らすようになったのが武平町の自宅兼工場です。
佐吉翁は特別な人望、人徳を持っている人で、彼を応援しようとする人がどんどんやってきました。そのうちのひとりが服部兼三郎さんという人です。この人は繊維の業界で、一代でのし上がっていった人です。彼は祖父江重兵衛商店(糸重)の丁稚として働き、娘までもらいながら、次期後継者の期待を受けるという大変なやり手な人でしたが、飲む打つ買うの、やり手だっために、追放されてしまい創業したのは八百屋町です。ところがそこが丸焼けになって、移転したのが宮町。そこで服部商店として、大陸に糸を売りまくって大成功を収めるわけです。
その服部商店で丁稚小僧だったのが、後のトヨタ再建の男・石田退三さんです。石田退三語録の中ででてきますが、ある日、みすぼらしい格好をしたオッサンが、ぬおっと入ってきた。挨拶もせずにただ立っている。それを見つけた主人が、「さあさあ、どうぞ」と通した。主人は「今日はいかほど?」と聞いたら、「今日はちいと高くてすまんが25万円ばかし貸してくれ」といったそうです。当時の25万円というのは、現在では1億を超える。それを、借用証書も書かずに、ありがとうとも言わずに出ていったそうです。これを見て肝をつぶした退三さんは、「あの人、どういう人ですか?」と聞いたら、「お前、よく覚えておけよと、あの人は豊田佐吉さんといってな・・・」といったエピソードがあるのが、ここの場所です。
ところが第一次世界大戦があって糸が暴落してしまった。兼三郎さんは自殺に追い込まれてしまったのです。その葬儀委員長は佐吉翁です。その再建に取り組んだのが三輪常次郎。それが興和さんです。
名古屋には見れば見るほど変わった町名があります。町名は文化、歴史だと思います。だからなんとか町名復活運動をどうやって進めたらいいのか協力を仰ぎたいと思っています。
北見昌朗
北見昌朗プロフィール
給与コンサルタント 北見昌朗(きたみ まさお)
社会に出たのは昭和57年。経済記者として毎日、経営者に突撃取材。社長さんたちのド真剣な生き様に感銘を受け、自分も経営者になりたいと一念発起して独立したのが平成7年。以後、経営者に給与の払い方を提案しつつも、自分が職員の給与問題で四苦八苦。社長の孤独さ、辛さをまじまじと実感。負けてたまるかと、自分を叱咤激励! モットーは「社員あっての会社 会社あっての社長 社長あっての社員!」。『幹部に年収1千万円を払う会社になろう』(PHP研究所)など著書多数。夢は65歳になったら勇退して全国の史跡を舐め回り本にすること。目標は童門冬二氏。社会保険労務士。名古屋市出身。昭和34年生まれ。
中学の担任が歴史の先生。弥生式土器が専門というだけに弥生時代は延々とー。授業は現代史まで届かず、受験には役立たなかったが歴史好きに。経営者となった今は「歴史に学ぶ経営」がテーマ。執筆中なのは「愛知 千年企業」という本で、江戸編、明治編、大正編という3部作。災害や恐慌に打ち克ってきた名古屋商人のド根性ぶりを著す。中京財界史に挑戦した本は、昭和30年発売の「創意に生きる」(城山三郎氏)以来。桶狭間の合戦の武功にどんな恩賞が与えられたのかを調べた『織田信長の経営塾』(講談社)、『武田家滅亡に学ぶ事業承継』(幻冬舎)など著書多数。夢は65歳になったら勇退して全国の史跡を舐め回り、童門冬二氏のように本を書くこと。社会保険労務士。名古屋市出身。昭和34年生まれ。